クオリアという概念は、主観的な「質感」とか、訳されることが多いですが、ニュアンス的には「感覚」の方が分かりやすいと思います。
例えば砂糖をなめた時の「甘い」という感覚です。
もし仮に舌の無い人間が身近にいたとします。
その人に「甘い」ということが、どういうモノであるかを伝えられるでしょうか。
少し想像してもらえれば、「甘い」を言語にしたりして情報化し、他者に伝えることは、まず不可能です。
相手との疎通が不可能ということは、「甘い」という感覚は自己の主観的モノという事です。
つまり100%決まったものとはいえません。
1個のケーキがあって、自分がすごく甘いと感じているとき、他者は、そんなに甘くないと感じているかもしれないし、
極端にいえば、その他者が塩っぱいと感じていることもあるかもしれません。
一見そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、塩っぱいと感じている人は、生まれて初めてケーキを食べた時からその感覚(塩っぱさ)を「甘い」という感覚だと思っています。
ケーキを食べた後、自分とその人が「このケーキ甘いね」といっても会話は成立してしまいます。
そしてその「甘い」が違うという事に、まず疑念を持つ事が出来ないし、仮に違和感を覚えたとしてもそれを確かめるすべは無いのです。
同じように「赤い」という色が自分と他者が同じ認識の色を指しているかどうかも、分からないし確かめようがありません。
このような、人それぞれに発生する感覚を「クオリア」と呼びます。
結論としていえば自分の見ている「赤い」色が、他者のみている「赤」が違うかもしれない。
そして、それを確かめるすべが無い、ではこの「赤い」「甘い」感覚の正体ってなんなんだ。そのような哲学的な命題がクオリアなのです。